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四国遍路(もう一つの顔)

四国遍路は案内のチラシが入っていたり、ネットを探せば誰でも気軽に行ける場所としての情報があふれています。
 
四国遍路はお大師様(弘法大師・空海)が修行の場として四国八十八ヶ所霊場を開創されたと伝えられ、その八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路といいます。
 
当初の遍路は修行僧が中心でしたが、その後弘法大師信仰の高まりにと共に、日本全国から多くの方が遍路されたようです。

同行二人ひとり歩きとはお大師様と共にいるということで、金剛杖を持 って歩くのは、金剛杖が弘法大師の化身としての役割をもつとされます。

昨今では車で廻れたり、バスツアーなどもあったり、巡礼の目的も様々ですが、 今は忘れ去られているもう一つの四国遍路の有り様を、愛媛県大洲市在住の五藤孝人さんに伺いま した。
 
愛媛県西予市に「関地池」という灌漑用アースダムがあります。

その起源は江戸初期(1635 年)に宇和島藩初代藩主伊達秀宗の命により構築されたため池で、工事が難航していたところに「お関さん」という人が親娘で巡礼をしていました。

当時四国は死の国 ともいわれ、ハンセン病(癩病)や身体不自由な人にとっては案に捨てられる場所であり、死地とも言える場所だったようです。

帰る宛ても無いお関さんは、いっそ人の役に立てればという思いで、親子共に人柱になることを申し出たそうです。

その後工事ははかどったということでその名前を刻み今に残っています。
 
四国遍路の札所の中には、本堂の裏や片隅に松葉杖やギブスが置かれていたり、背面の板壁には葉 書大の白い紙に「目」「手」「耳」「足」「脳」「腰」「膝」などの文字が本人の齢の数だけ縦書きに羅列された張り紙がよく見受けられます。

その昔、障害の程度や先天、後天的な障害を問わず、奇蹟への祈願とも言うべき切実な願いを持って遍路の旅に出た人たちが居ました。

 

移動手段は盲目の人は前後2人で運ぶ乗り物であるタゴシ(手輿)で運ばれたり、重い病や肢体不自由な障害などの身体で、自力で歩行が困難な人は物乞いを強調した遍路の蔑称でニジリヘンドと言われ、ハコグルマ(箱車)という車輪付き移動台に乗り、他の人に引いてもらったり、押しても らったりしながら巡礼しました。

しかし、これは同行者がいる場合であって、同行者が居ない場合は特に悲惨で、誰かに車を押してもらわなければ動けない。

ニジリヘンドを見つけると、村の人が次の村境まで送っていき、次の村の人はまた次の村境まで送っていく。そうして命がつきるまで霊地をさすらうというようなことも ありました。
 
村でこのような死人が出た場合、その村で弔わなければいけないという決まりがあり、所持品は弔う村のものになるという決まりもあって、お金を持っているかどうかで待遇が違ったようです。

また、四国遍路はお接待という慣習があって、親切なお国柄という印象を我々に持たせます。

昔、流刑の地といえば佐渡島や隠岐島などは有名ですが、四国もまたかつては流刑の地でした。

そうした人たちはそこに根を下ろして暮らしていても、巡礼している人がどこから来たのかが大いに関心があったことでしょう。

善根宿(修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させた)やお接待などをしながら、懐かしい 自分のお国(故郷)の情報を聞くことが楽しみでもあったようです。

 

後藤高人(ごとう たかひと)

愛媛県大洲市生まれ。 大洲史談会理事、大洲市立博物館運営委員、大洲歴史文化教室委員長、八幡浜部落史研究会副会長、 四国部落史研究協議会員、愛媛民俗学会員など多数。  

愛媛県大洲市在住の五藤孝人さんに四国遍路について伺ってきました
死生観 四国遍路 同行二人