両親の祖母がそれぞれに老衰で介護施設や、病院に入っていた時期がありました。
父方の祖母は偏食で栄養失調の傾向があり、介護施設と病院との転院を繰り返していました。
病院への入院が落ち着いた頃、家族でお見舞いに行くと小さくなった祖母に点滴チューブ が繋がれて眠っていました。
「延命措置は必要ない」、「やらない」と意識がハッキリしている頃から言い続けていたので胃ろうはしない。
ただ、そうは言っても病院側は何かしなくてはならないので、点滴は行っていました。
母方の祖母は長男家族が面倒を見ていたので、頻繁には会いに行くこともなく、お正月の挨拶を兼ねて年明けに病院へ行ってきました。
ベッドには小さくなった祖母が寝ていましたが、こちらは特に点滴などもせず、意識もあって会話はできないながらも来たことを認識してくれていました。
その年の私の誕生日。
「今日はどうするか?」などと話をしていたところに母方の祖母が「今、亡くなった」と連絡が入りました。
「え、今?」というか「今日?」、自分の誕生日に祖母が亡くなるなって思ってもみませんでした。
それを察知してか母が「よっぽどあんたに忘れられたくなかったのね」と一言。
それからは親戚へ連絡を入れたり、バタバタとして誕生日どころではなくなってしまいました。
夜になって斎場のスケジュールが満杯で葬儀はしばらく先になりそうだと連絡がありました。
「斎場が混んでいるなんてね・・」となんだか腑に落ちない連絡を飲み込みました。
その翌朝、週末だったこともあり、ゆっくりと起きて朝食を終えた頃に父方の祖母が入院している病院から「もう長くなさそうなのですぐに来てください」と電話がありました。
車を飛ばして病院へ着くと、それを待っていたかのように静かに息を引き取りました。
母方の祖母が亡くなった翌日に、父方の祖母が亡くなるというあまりの出来事にびっくりした家族一同。
往年、年明けの正月には母方の祖母が我が家に泊まり、父方の祖父母の家に挨拶に行くことが続いていました。
然程仲良く話している様子はなかったけれど、どこか繋がるものがあったのか?
病院から手続きを終えて帰ってきた両親は「あの二人はそんなに仲良かったか?」、「どうでしょうね?寂しくてお迎えに来たんじゃないの?」なんてことを話していました。
結局、斎場の都合などを考慮したスケジュールは、母方の祖母の葬儀と、父方の祖母の葬儀が連続するものでした。
葬儀の場所は違えど、4 日間顔を合わせる親戚はほぼ一緒。
「この度はご愁傷様・・」という挨拶もどこか可笑しくもあり、言葉尻には「お互い大変でしたね」という一言がおまけにくっついてくる。
精進落としの場で母が私を引き合いに出して「この人の誕生日とその翌日だったんですよ」と言えば、「そういえば父方の祖父の命日は○○おじさんの誕生日だったわね」なんて話が出てきて、珍しい話ではないようでした。
お盆よりも何よりも自分の誕生日が来ると、両祖母のことを思い出す、そんな年が続いています。