25 歳の秋に、父から「最近お母さんは夜に咳が出て眠りにくく何度か夜間救急に行ったけれどなんともないって言われるんだ よ。」と電話がかかってきました。私はその頃京都で働いていたので、早く検査するように父に話しました。
その後、本人が病院に行きたがらないため数日様子見たものの、状態も良くならず、ヘビースモーカーだったにもかかわらずタバコも 吸えない状態になってしまっていたようです。
あまりに苦しく、かかりつけ医に相談し検査したところ肺がんが発見され、その日のうちに県立病院へ紹介され入院となりました。 その知らせを聞き、勤務調整してもらい 3 日後に帰省しました。
主治医の IC(インフォームドコンセント)で見せられた肺の画像は深刻で、気管の周囲を取り囲むように大きな腫瘍があり、気管支 の太さも数ミリになっている。
昨日から放射線治療を開始したが、効果がなければ 2 か月持たない、効果があっても余命は半年くらいだ、と説明されました。
この時点では化学療法はしないことになりました。
母は、思ったよりも元気で「入院したら苦しくなくなった」と言い、放射線療法も積極的に受けていました。
この頃は告知しないことが当たり前だったので、病気の事を母と詳しく話すことはしませんでした。
私は、かなりショックで周りの景色も見えずに、悲しさと母が居なくなる恐怖心でいっぱいでした。
IC のあとも母には「そんなに心配しなくていいんだって」と話し、何でもないような顔をしているのが精いっぱいでしたが、突然膀胱炎 になってしまい、訳が分からないような気持でした。
家に帰り、姉たちに現状を伝え、沢山泣いて、いろんなことを後悔して、と怒涛の数日間を過ごし、京都に戻りました。
放射線療法の効果があり、がんはかなり縮小したので退院し、母は仕事に戻ることにしました。
沢山のお見舞いを頂いていたので、快気祝いの品物を嬉しそうに選んでいる母の姿を見ていると、私は寿命がのびた嬉しさと同時 に、再発の事を心配していたのです。
ここから母は、徐々に体調変化はあったものの入院治療を挟みながら仕事もしていました。
状況が一変したのは、はじめの治療から 1 年半ほどたった時です。
何度目かの入院中に夜中に父から母が急変したと電話がありました。この時のショックは言い表せません。
とにかく急ぐ必要があるので、近くに住む姉に電話をかけようとしても突然電話の調子が悪くかかりません。
そうこうしていると電話が鳴り、出ると、危篤のはずの母の声で私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
その電話はすぐに切れてしまいました。その後に電話の調子が元に戻ったため、姉に電話して母が危篤だと伝え、すぐに車を走らせました。
空を見上げると低い位置にある大きな月が赤さを帯びているのを見て、姉に母の声で電話がかかってきた話をしながら、2 人で、 「もう間に合わないかもしれないね」と話しました。
途中で通り道にある岡山県に住む妹の家に行き、声をかけ先を急ぎます。
病院に着くと、父や親戚たちも集合してしんみり泣いていました。母は下顎呼吸をしており虫の息でした。
思わず姉と私は母に走り寄り、体を揺らして母に呼びかけました。何度かそれを繰り返すと、何と目を覚ましました。
驚きと、まだ別れなくていいのとで安心したのと、間に合ったのでホッとしました。
余談ですが、今ではその時のことは、あの時生き返ってめちゃびっくりしたなぁ!と姉たちと笑い話になっていますが。
母は、その後ゆっくりと呼吸が戻り、うとうとと眠り始めました。主治医も駆け付けて下さり、峠は超えたとなりました。
ただしがんは、脳、肝臓、背骨、乳房にも転移しているため、次に何かあったら覚悟するようにと説明を受けました。
数時間後母が目覚めた時、私に電話した?と聞くと「した」と言っていました。
また、京都に帰らないでくれと言うので、上司に相談して休暇をもらうことにしました。
その後は、約 2 か月病院に泊まったりしながら介護をしました。そうして看取りまで共に過ごしました。
母は、病気をすることが多かったためか、私が小学 5年生頃から、自分が死んだら、印鑑と通帳,生命保険の証書の場所はここに ある、お金はこのように使うように、と何かあるごとに私に話して聞かせていました。
ですから、母の死後、家族がもめごとを起こすことはありませんでした。
最後にこのことについての話をしたのは、母も自分の死を覚悟したお盆の帰省中でした。
「もう美容室に行くこともできなくなると思うから付いて来て」というので、付いて行きました。
その帰りに自分の死後にはこうしてほしいと幾つかのお願いを伝えてきました。
私は、「分かった」とだけ伝えました。これは亡くなる 2 か月前の話です。
私の祖母が信心深く、死は遠いものではなくいつかは皆浄土に行くのだから善い行いをするように、と言い差別をしない人で、また 法話を聞くことも多く、寺を営む親戚もいる中で育ってきました。
そのせいなのか、母の死まで側に居て介護しながら様々な思いを感じていたからなのか、身内の死はつらく寂しい。
それでも別れの 辛さは思っていたよりも長くは続きませんでした。
父も数年前にがんで亡くなりましたが、母の死を見て父もまた、終い支度をしっかりとして、自分の死後はこうするようにと指示を出 していました。
父の看取りまでの 1 か月は休職して側に居ましたが、そこでも父とは沢山話をして、時には喧嘩もしたけれど、様々な思いを自覚 していたからこそ別れることができたのだと思います。
私も、こどもには両親と同じように自分の死のあり方についての希望は伝えています。
ベッドに長く縛りつけられることなく、自然に、と希望しています。