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死について (Daisukeさん)

死について何か書いてほしいというご依頼を受けたとき、私にはあまり書けることがないような気がしました。 
率直に言って、普段は死というものを意識せずに生活していますし、とりとめのない文章になってしまうと思いました。
でも同時に、これが死について考えを深める良い機会になるかもしれないとも思い、死について考えてみることにしました。

死という言葉を聞いてまず浮かんだのは、自殺という形で亡くなられていった患者さんのことでした。
私は、主治医を務めている間に自分の患者さんを自殺で喪ったことはないのですが、何らかの形で関わったことのある患者さんの自殺を5人経験しています。
そして、自殺未遂をした方々には本当に数え切れないほどお会いしてきました。

おそらく1000人を超えているでしょう。

自殺という形で亡くなった5人の方々は、病名も、抱えていた問題もそれぞれに異なる方々でしたが、共通していたのは自殺する前の時期の非常に強い焦燥感、または「自殺する以外に残された方法はない」という強い考えでした。

もう少し正確に言うと、自殺未遂の方々も含めて、自殺を図る方のなかで死を積極的に望んでいる人はほとんどいません。
「この苦しみにこれ以上耐えられないので苦しみを終わらせたい。そして、苦しみを終わらせる方法が自殺以外に考えられない」というのが多くの方の自殺行動をおこす直前の心境だと思います。
そのような状態を改善するのが精神科医療の役割だと思いますが、うまくいくことばかりではありません。
少しでも回復につながるように、あるいは焦燥感など自殺の危険が差し迫っていることを早めに察知できるように、できる限りの努力はするのですが、あまりにも解決が難しそうな問題を抱えている方を目の前にすると、―本当は避けなければならないことなのですが―、治療者の役割を果たすべき私が諦めかけてしまうこともありました。
そして、治療者が患者さんの回復への希望を失うことは、患者の回復にとって大きなマイナスの影響があると思います。

自殺直前の状態まで追い込まれた方々を目の前にしたときの自分の無力さを痛感するとともに、「3 年前、5 年前にこの方々に会えていたら、もっと違う結果になっていたかもしれない」と思ったことが、医療の現場からうつ病予防のための研究へと仕事を転換した理由の一つになりました。

自殺という形で人生を終わらせるのは、できれば避けたいことです。
 
虐待の防止や助けを上手に求める方法を子どもに教えるなど、自殺を減らしたりメンタルヘルスを良くしたりするために社会がやるべきことは山のようにあり、その一部に何らかの形で関わることができればと願っています。 
同時に、どんなに辛いと感じることがあっても自分自身が自殺せずに天寿を全うすることは、生涯をかけた課題の一つなのだろうとも思います。
 
死について、次に思い浮かんだことは、「死は何かを残す」ということでした。
自殺で亡くなった患者さんのことを、私は他の患者さんたち以上にはっきりと思いだすことができます。
若くして亡くなられた先輩の言葉も、その声や筆跡までありありと思い出すことができます。
いなくなった後にその人の本当の大切さが分かる、という使い古された言い回しがありますが、その人が生きていることを当たり前のことと思っていると、本当なら感じられるはずのことが感じられなくなるということなのだろうと思います。
そうであるならば、自分自身がいま生きていることも当たり前のことだとは思わずに一日一日を過ごしたほうがよいのかもしれません。
ただ、「今日死んでもいいという覚悟で生きる」というのは簡単なことではないように思えます。
たとえば、仕事によっては計画してから完了するまでに3年も5年もかかるものもあります。
長期の研究計画を立てるとき、「明日死ぬと分かっていたらこの研究をやろうと思わないだろうな」とふと思います。
あるいは、仕事をする上では必要だけど、決して好きではないこと―統計の勉強など―を、人生最後の日にすることも決してないでしょう。
雑用のような仕事も最後の日には決してしないでしょう。
でも、日常はそういった作業の積み重ねでできていて、やらないわけにはいきません。
そういう作業をしていると、私は明日死んでもいいという覚悟をもって今日を生きていないのではないか、という気がしてきます。
では、人生最後の日、私は何をするのでしょう。 もし明日、自分の人生が終わると知らされたら。

おそらく私は、その日も朝になったら職場に行くと思います。
私を選んでくれた、そして私が選んだ職場に行って、職場の大切な人たちにお別れと感謝を伝えるでしょう。
そして、自分の頭の中に描いている仕事の計画を、後を継いでくれそうな人たちに話して、そのうちのいくつかが彼らの手によって実現することを願います。
それが終わったらできるだけ早く家に帰ってきて、家族との時間を持ちたいと思います。
家族がまだ家に帰ってきていなければ、その間に遠くにいる家族や親しい友人に、手紙やメールを書くでしょう。
 
電話もするかもしれません。 遺言もきっと書くと思います。 何を書いたらよいか分からないので、けっこう時間がかかりそうです。
家族との時間を過ごしたら、瞑想をして少しでも高いエネルギーを感じようとすると思います。
不安や恐怖に襲われて瞑想ができないような状態になるのか、意外と落ち着いて瞑想することができるのか、いまの自分には分かりません。
そして夜は眠って、そのまま翌日の朝を迎えたいと思います。
職場の人や友人や家族に感謝を伝えることは(あるいは遺言を書くことも)、いつもの日常の中でもできることなのでしょう。
死を翌日に控えたからといって私のエゴが小さくなるとは限りませんし、むしろ「自分のことを覚えていてほしい」といったエゴは大きくなってしまうのかもしれません。
それでも、普段持っているプライドのようなものや執着のようなものが死を目前にして無意味に感じられるのであれば、そのような心持ちで日常を過ごすことも「今日死んでもいいという覚悟で生きる」という生き方に一歩近づくうえで大切なことかもしれません。
1924年、人類初のエベレスト登頂を目指したマロリーとアーヴィンという登山家がいました。
2人は8000メートル付近から目撃された後に消息を絶ってしまうのですが、山頂を目指して登る2人を最後に目撃したオデルという別の登山家が、97歳で亡くなる直前に、次のような言葉を残しています。
「よく考えてみれば、あれは私の姿なのです。そしてあなたの。この世に生きる人は全てあのふたりの姿をしているのです。

(中略)死はいつもその途上でその人に訪れるのです。軽々しく人の人生に価値などつけられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか、たぶんそのことが重要なのだと思います。」


私もいつか、何かの途上で死を迎えることになるのでしょう。
そのときは、見当違いの山ではなく、自分が目指すべき山を登っている途上でありたい。

そのために、これからも学びを続けていきたいと思います。


-2018 年 12 月 30 日-

死についてDaisukeさんにお話を伺いました
死生観 死について